最終更新: guildwars2 2019年07月11日(木) 12:50:15履歴
1部
1章 これまでの経緯
2章 うまくいかないネットワークとは
2部 うまくいったネットワークの構成要素とは
3章 精神科治療ネットワークが構成できた理由は
4章 未来がたりのダイアローグ
5章 オープンダイアローグと未来が足りのダイアローグの比較
6章 バフチンの思想について
3部 成功事例の般化
7章 良い対話 駄目な例
8章 実質的なエビデンス
9章 適切な治療のすすめ
1章 これまでの経緯
2章 うまくいかないネットワークとは
2部 うまくいったネットワークの構成要素とは
3章 精神科治療ネットワークが構成できた理由は
4章 未来がたりのダイアローグ
5章 オープンダイアローグと未来が足りのダイアローグの比較
6章 バフチンの思想について
3部 成功事例の般化
7章 良い対話 駄目な例
8章 実質的なエビデンス
9章 適切な治療のすすめ
http://associationists.fc2web.com/hida0001.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E...
http://www.coara.or.jp/~dost/5-1-1-1.htm
http://www.psych.or.jp/publication/world_pdf/64/64...
Mikhail Mikhailovich Bakhtin 対話理論・ポリフォニー論の創始者。記号論のタルトゥー学派の祖。
バフチンはオープンダイアログのエッセンスの元になっているので研究価値がある。
バフチンは,オレ視点から世界の意味を解釈していくことを,彼の人間研究の出発点として描き出した。
わたしの外にあって向かい合っている人物の全体をわたしが観察するばあいに,実際に体験されるわたしと彼の具体的な視野は一致しない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E...
http://www.coara.or.jp/~dost/5-1-1-1.htm
http://www.psych.or.jp/publication/world_pdf/64/64...
Mikhail Mikhailovich Bakhtin 対話理論・ポリフォニー論の創始者。記号論のタルトゥー学派の祖。
バフチンはオープンダイアログのエッセンスの元になっているので研究価値がある。
バフチンは,オレ視点から世界の意味を解釈していくことを,彼の人間研究の出発点として描き出した。
わたしの外にあって向かい合っている人物の全体をわたしが観察するばあいに,実際に体験されるわたしと彼の具体的な視野は一致しない。
空間・視野が一致しない。
わたしたちがお互いに見合うとき,わたしたちの瞳には二つの異なる世界が映っている。
同じ空間・時間を共有することは決してあり得ないのだか
ゆえに 世界の解釈も一致することはあり得ない。
わたしたちがお互いに見合うとき,わたしたちの瞳には二つの異なる世界が映っている。
同じ空間・時間を共有することは決してあり得ないのだか
ゆえに 世界の解釈も一致することはあり得ない。
polyphony monologue
「ドストエフスキーの詩学」トルストイとドストエフスキーを比較し
トルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視されるのにたいし
ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、
各人の思想が否定されずに尊重される とした。
バフチンの「求心力」
(養育者とか先生とか)他者は,私の考えていることを理解しないばかりか,
外在的に,私の言動の意味を規定してしまう侵入行為すら働く存在でもある。
バフチンの「遠心力」
他者の働きかけに対し,「わたし」は独自性を主張して抵抗
バフチンがいうダイアローグとはこのような,絶望的なまでの他者との「分かりあえなさ」から立ち現れてくる概念(Clark & Hoquist, 1984)
「ドストエフスキーの詩学」トルストイとドストエフスキーを比較し
トルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視されるのにたいし
ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、
各人の思想が否定されずに尊重される とした。
バフチンの「求心力」
(養育者とか先生とか)他者は,私の考えていることを理解しないばかりか,
外在的に,私の言動の意味を規定してしまう侵入行為すら働く存在でもある。
バフチンの「遠心力」
他者の働きかけに対し,「わたし」は独自性を主張して抵抗
バフチンがいうダイアローグとはこのような,絶望的なまでの他者との「分かりあえなさ」から立ち現れてくる概念(Clark & Hoquist, 1984)
相手がその発話を認めて彼自身の発話であると思い込むことを要求する。
対して対話は、開かれている。対話はともに考える手段であり、1人の人間の枠を越え
参加者の間で形作られる。耳を傾ける。相手に届くような応答をする必要がある。
対して対話は、開かれている。対話はともに考える手段であり、1人の人間の枠を越え
参加者の間で形作られる。耳を傾ける。相手に届くような応答をする必要がある。
「それぞれに独立して互いに融(と)け合うことのないあまたの(=多くの)声と意識、
それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(注:多声楽)こそが、
ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。
彼の作品の中で起こっていることは、
複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。
そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、
何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。
実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、
単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。
したがって主人公の言葉の役割は、
通常の意味の性格造型や筋の運びのためのプラグマチックな機能に尽きるものではないし、
また作者自身のイデオロギー的な立場を代弁しているわけでもない。
主人公の意識は、もう一つの、他者の意識として提示されているのだが、同時にそれは物象化され閉ざされた意識ではない。
すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。
この意味でドストエフスキーの主人公の形象は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。
ドストエフスキーはポリフォニー小説の創造者である。
彼は本質的に新しい小説ジャンルを作り出したのだ。
それゆえ彼の作品はどんな枠にも収まらない。
つまり我々が従来ヨーロッパ小説に適用してきた文学史上の図式はいずれにも当てはまらないのである。」
( 第1章「ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」のp15〜p16。)
「ドストエフスキーの世界には、弁証法も二律背反も確かに存在する。
実際彼の主人公たちの思考は、時として弁証法的であり、あるいは二律背反的である。
しかしあらゆる論理上の因果律は、個々人の意識の枠内にとどまるものであって、
彼らの間の出来事レベルの相関関係を支配するものではない。
ドストエフスキーの世界は本質的に個の世界である。彼はあらゆる思想を個人の立場として把握し、描いている。
だから個々の意識の枠内においてでさえ、
弁証法や二律背反の系列は、単に抽象的な要因としてあるに過ぎず、
それは全一的で具体的な意識の別の様々な要因と分かちがたく絡み合っているのである。
この受肉した具体的な意識を通して響く全一的な人間の生き生きとした声の中でこそ、
論理系列は描かれる事件の総体に参加するのである。
「<ドン・キホーテ>にはルネサンスのカーニバル的な世界感覚が生きていて、パロディが背反的に二重的で、死と新生とのつながりを維持していた。それゆえパロディの懐から世界文学の中で最も偉大で同時にカーニバル的な小説のひとつ、<ドン・キホーテ>が生まれることができた」(ドストエフスキー論)
その上で氏は、「たしかに、<ドン・キホーテ>の言語空間には、カーニバルに特有の、人と人とのあいだの距離がすべて除かれた、自由であけすけな人間関係、そしてちぐはぐな組み合わせ、あべこべの世界が、対話と言うかたちで表現されている」という。
「ドストエフスキー創作においてもまた、当然のことながら、カーニバルの伝統は面目を一新して生まれ変わっている。そこでは、伝統は独自の意味づけを施され、他の芸術的要因と結びつき、これまでの章で明らかにしようとしたような、彼特有の芸術的目的に奉仕しているのである。カーニバル化はそこでは、ポリフォニー小説のあらゆる特性と有機的に結びついているのだ。」
( 第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp320〜p321。)
「『罪と罰』を始めとするドストエフスキーの長編のどれを取っても、そこでは例外なく対話の徹底的なカーニバル化が行なわれている。」
( 第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp335。)
その上で氏は、「たしかに、<ドン・キホーテ>の言語空間には、カーニバルに特有の、人と人とのあいだの距離がすべて除かれた、自由であけすけな人間関係、そしてちぐはぐな組み合わせ、あべこべの世界が、対話と言うかたちで表現されている」という。
「ドストエフスキー創作においてもまた、当然のことながら、カーニバルの伝統は面目を一新して生まれ変わっている。そこでは、伝統は独自の意味づけを施され、他の芸術的要因と結びつき、これまでの章で明らかにしようとしたような、彼特有の芸術的目的に奉仕しているのである。カーニバル化はそこでは、ポリフォニー小説のあらゆる特性と有機的に結びついているのだ。」
( 第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp320〜p321。)
「『罪と罰』を始めとするドストエフスキーの長編のどれを取っても、そこでは例外なく対話の徹底的なカーニバル化が行なわれている。」
( 第4章「ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」のp335。)
バフチンは、ドストエフスキーの言葉を分析しようとして、自明な言語現象の問い直しを迫られた。〈バフチンの言う対話において重要なのは、二つの言表がいかに異なる形式を取っているかではなく、その言表がどの主体、どの口から発せられているかである。意味内容も形式上も全く同一であっても、それが二つの異なった口から発せられるならば、その二つの言表には対話的関係が生じる。逆に、二つの言表に、意味内容、形式上に差異があって、相互に対立したり補足し合ったりしていても、それを発する「主体」が閾で隔てられていないなら、たとえ対話的体裁ををとっていようと、そこには対話的関係は生じない。〉父親殺しに関して法律的には無罪であるイワンは、孤独の内に何度も「殺したのは俺だ」と自身を弾劾せざるをえなかった。ところが問われてもいないのに、アリョーシャは「殺ったのはあなたじゃない(ne ty)」と言い、イワンの内に激しい抵抗を生み出し、後の場面でスメルジャコフも「殺ったのはあなたじゃない(ne ty)」と言ってイワンを不意打ちする。
不安が高まる。
クライエントが不満を覚える。 病院に受診しましょう。なんで?
その家族が不満を覚える。 受診しないので年金が切れます。
専門家同士が不満を覚える。
クライエントが不満を覚える。 病院に受診しましょう。なんで?
その家族が不満を覚える。 受診しないので年金が切れます。
専門家同士が不満を覚える。
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